mardi 30 octobre 2007

文系の、あるいはフランスの?そして何という暴挙



日曜の夜だっただろうか。パソコンの時間が1時間ずれていることに気付き、不思議に思いながらも1時間進めるという訂正をする。冬時間ということも頭の中の遠くにあったが、確かめずにいた。昨日、他を見てもそうなっているのでラジオをつけてみてやっと冬時間であることを確認。パソコンの訂正を元に戻し、自らの時計を1時間遅らせた。10月28日で夏時間が終ったようだ。

ところで講義が始って2週間ほどが過ぎたのだが、今頃あることに気付いた。それはこれまでパワーポイントやスライドを使ったヴィジュアルな講義が一つもなかったことだ。自分で講義する時には使っていたのだが、聞く方の経験があまりなかったことと日本でたまに行っていたフランス語学校の講義と重なっていたせいか、全く不思議に思わなかった。これがフランスのせいなのか、文系の講義のためなのか、日本で文系の講義を受けていないのでわからない。以前にフランスで覗いた文系の学会でもパワーポイントは使われていなかった。文系でも法律や経済となると使いそうな気もするのだが、よくわからない。

どうしてこうなるのか考えていた。理系の場合には図や表、写真として示すことができるような成果が上がっているので、それがわかるような教育手段を用いるし、用いないとまともに講義をしていないということになる。しかし、文系 (特に哲学や文学) の場合にはそれが難しいのではないかと思い当たった。例えば、権利や義務を図にしなさいと言われても困ってしまうが (あるいは図にするという発想がないのかもしれない)、理系の場合には相当に複雑な概念でも図にできることが多い (ただし、それはあくまでも理解を助ける漫画にしか過ぎないのだが)。換言すれば、言葉を聞いただけでそのイメージが湧いてくるようでなければ話をよく理解できないのが文系の領域ではないのかということである (図でも出してくれればもう少しわかったような気になるのに、という思いである)。これまでどんなものを読んでもすぐに眠くなった大きな理由は、そのイメージのようなものの蓄えが著しく貧しいためではないのか、という結論になった。

今回、理系の頭のかなりの部分は具体的なイメージに支えられていることを感じている。文系の場合には、そのイメージが茫漠としていて人によって全く異なってくる可能性もあるのではないだろうか。いずれにしてもこの分野のお話がピンと来るには、言葉を自分の中でイメージのようなものとして蓄え、それを瞬時に引き出すことが求められているようだ。これはある意味で外国語を勉強するのと余り変わらないと言ってもよいだろう。つまり、私のやっていることは、外国に来て、外国語で考え話し、その上さらに別の外国語のようなものをその国の言葉で学ぼうとしていることになる。これが無謀でなくて何であろうか。



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